――あの、最悪の出会いから一週間。
今日は、もう授業がない。
午後の講義を終えたニラッチは、静まり返りつつある講義棟の廊下を、一人で歩いていた。
大学に入学して、まだそれほど経っていない。
しかし、ニラッチにはすでに、大学生活について一つの結論が出ていた。
――大学とは、実にくだらない。
そして。
――サークルというものも、実にくだらない。
発明サークルに入部してから、一週間。
一度も部室には行っていなかった。
ニラッチ「(……別に、行く必要などない。)」
入部したのは、あの日ナスビーに助けてもらったから。
それだけだ。
サークル活動そのものに興味があるわけではない。
幽霊部員で十分。
そう思っていた。
ただ一点だけ、気になることがあった。
数日前、他の学生たちの会話から、聞いたウワサだ。
あの、発明サークルにいたナスビーの父親は、あの有名な冒険家――ダドナスだというのだ。
ニラッチ「よりによって、あのダドナスの息子が……。」
ダドナスといえば、世界各地を旅し、数々の秘境を踏破したことで知られる人物だ。
そして、最後の冒険で、行方不明となってしまったことも。
ニラッチ「……気の毒に。」
ニラッチは、しみじみと思った。
ニラッチ「どれほど優秀な親でも、あんなバカ息子が生まれることがあるのだな……。」
ニラッチは、父親が行方不明となってしまったナスビーのことでなく
部室で裸でいるようなマヌケな息子を持ったダドナスを気の毒に思っていた。
ニラッチ「……あいつ、今頃何をしているんだ?」
ふと、あの紫色の顔が浮かんだ。
――ナスビー。
初対面で全裸だった男。
そして、自分を発明サークルに強引に勧誘した男。
ニラッチ「……まったく、とんでもない奴だ」
そうつぶやいたときだった。
ナスビー「あ。」
廊下の向こうから、その本人が歩いてきた。
ナスビー「やあ!」
ナスビーが手を上げる。
ニラッチは足を止めた。
ニラッチ「……ナスビー。」
ナスビー「ニラッチ!」
ニラッチ「お前、今からどこへ行く?」
ナスビー「え?ええと……。」
ニラッチ「?」
ナスビーは一瞬口ごもった。
ナスビー「ろ、廊下を散歩かな!」
ニラッチ「散歩?」
ニラッチは少し考えた。
ニラッチ「部室へは行かないのか?」
ナスビー「えっ。」
ニラッチ「何だ。」
ナスビー「いや……。」
ナスビーは明らかに困っている。
ナスビー「今日は行かない方がいいかも。」
ニラッチ「なぜだ?」
ナスビー「その……」
ナスビーは小声になった。
ナスビー「今、部室、ちょっとイカ臭いから。」
ニラッチ「…………。」
ニラッチは無言になった。
ニラッチ「……イカ?」
ナスビー「うん」
ニラッチ「なぜ。」
ナスビー「実験。」
ニラッチ「何の実験だ。」
ナスビー「まあ……いろいろ。」
ニラッチ「…………。」
怪しい。
非常に怪しい。
ナスビー「じゃ、俺、先に行くね!」
ナスビーはそそくさと歩いていった。
ニラッチ「…………。」
ニラッチはその背中を見つめた。
ナスビーは「行かない方がいい」と言いながら、部室へ向かっている。
ニラッチ「……来るな、か。」
自分も部員だというのに。
なぜ自分だけ追い払われる。
ニラッチ「……フン。」
ニラッチは後をつけた。
別に部室に行きたいわけではない。
ただ――。
ニラッチ「……何か隠しているな。」
気になって仕方なかった。
そして。
発明サークルの部室にたどり着いた。
ナスビーが中へ入る。
ドアが閉まる。
ニラッチ「…………。」
ニラッチはドアの前に立った。
ニラッチ「……よし。」
ドアノブを握る。
ニラッチ「驚かせてやる。」
ガチャッ!
ニラッチ「入るぞ!」
勢いよくドアを開けた。
ミヨ子「ニラ様~~~~~~っ!!!」
ニラッチ「…………え?」
いきなり、黄色い声が飛んできた。
ニラッチが固まる。
部室の中央にいたのは――。
ミヨ子「ニラ様~~~! やっと会えましたね~~~っ!」
ミヨ子だった。
ニラッチ「うっ。」
ニラッチの顔が引きつる。
ニラッチ「な……。」
ミヨ子は嬉しそうに駆け寄ってくる。
ミヨ子「ずっと会いたかったんですの~~~~!」
ニラッチ「待て。」
ミヨ子「はい!」
ニラッチ「なぜ君がここにいる。」
ミヨ子「ここ?」
ミヨ子はキョトンとした。
ミヨ子「発明サークルですよ?」
ニラッチ「それは分かっている!」
ニラッチはナスビーを振り返った。
ニラッチ「ナスビー。」
ナスビー「はい」
ニラッチ「説明しろ。」
ナスビー「いや~……。」
ナスビーは頭をかいた。
ナスビー「実はぁ~……。」
ニラッチ「何だ。」
ナスビー「あの日の後、ミヨ子ちゃんがここを訪ねてきてね。」
ニラッチ「…………。」
実は、あの最悪の出会いの日、ニラッチがナスビーの部室から出てきたところを、ミヨ子は少し離れたところで待ち伏せして、見ていたのだ。
ナスビー「どうしても入部したいって言うから。」
ニラッチ「…………。」
ニラッチの眉がピクリと動いた。
ニラッチ「お前……。」
ナスビー「うん?」
ニラッチ「ミヨ子を入部させたのか?」
ナスビー「……はい。」
ニラッチ「なぜだ!!!」
ナスビー「ひぃっ!」
ナスビーが一歩下がる。
ナスビー「や、やっぱ怒る!?」
ニラッチ「当たり前だ!」
ニラッチはミヨ子を指差した。
ニラッチ「こいつはいつも俺を追いかけ回す!小学校の頃から、今に至るまで、ずっとだ!長年迷惑しているんだぞ!」
ナスビー「知ってるよ。ミヨ子ちゃんから聞いた。」
ニラッチ「…っ。」
ナスビー「ニラッチの近くにいたくて、高校も、大学も、ニラッチと同じところに行けるよう、勉強にしたんだって?すごい努力家じゃない。」
ニラッチ「……。」
ニラッチは少し黙った。
ニラッチ「だが、迷惑している。」
ニラッチはナスビーを詰めた。
ニラッチ「俺が困っているのを知っていて、なぜ入れた?」
ナスビー「いや~……。」
ナスビーは苦笑した。
ナスビー「かわいかったから、つい。」
ニラッチ「そうだろうと思った。」
ニラッチは肩の力が抜けた。
ニラッチ「……お前は本当に馬鹿だな。」
ナスビー「よく言われる!」
ニラッチ「褒めていない!」
ナスビー「知ってる!」
するとミヨ子が、申し訳なさそうに手を上げた。
ミヨ子「あの……。」
ニラッチ「何だ。」
ミヨ子「私のせいで、揉めてます?」
ナスビー「…………。」
ニラッチ「そうだ。」
ミヨ子は少し照れながら笑った。
ミヨ子「私のために、言い争わないで下さい。」
ニラッチ「~~~~っ!」
ニラッチはめちゃめちゃイラッとした。
そして、怒鳴ろうとしたそのとき
ナスビー「まあまあ、ミヨ子ちゃんは何も気にしないで!君みたいなかわいい子は、ただいてくれるだけでいいんだから!」
ミヨ子「ありがとう、ナスくん。」
ナスビーは口元がゆるんでいた。
女の子を前に、明らかにデレデレしている。
ニラッチ「ハア……。」
ニラッチはタメ息をついた。
ニラッチ「…………もう、いい。」
ナスビー「いいの!?」
ニラッチ「バカどもを相手にして、苛立つのも疲れた。」
ナスビー「バカどもって!」
ミヨ子「ニラッチさんは、こういうことを素直に言う人なんです。」
ニラッチ「……。」
ニラッチはミヨ子を見る。
ニラッチ「だが、いい機会だ。この機に、一つ言っておく。」
ミヨ子「はい!」
ニラッチ「私を追いかけるのは、もうやめてくれ。」
ミヨ子「…………。」
ミヨ子の笑顔が少しだけ曇る。
ミヨ子「……やっぱり、嫌ですか?」
ニラッチ「嫌というか……。」
ニラッチは言葉を選んだ。
ニラッチ「大学中を大声で『ニラ様~~!』と叫びながら追いかけられるのは困る。」
ミヨ子「……はい。」
つづく
編集中
「周囲の目もある」
「……はい」
「だから、普通に話しかけてくれ」
「……分かりました!」
ミヨ子は少し寂しそうだったが、すぐに笑った。
「じゃあ、普通に話しかけます!」
「そうしてくれ」
ニラッチはホッとした。
ところが。
「……ナスビーくん」
「ん?」
「ニラ様に言ってください」
「え?」
「私、ちゃんと普通にしますって」
「いや、今本人に言ったじゃん」
「でも、ナスビーくんからもお願いします!」
「うーん……」
ナスビーは腕を組んだ。
そして。
「じゃあ、俺からも一つ言っておこうかな」
「何だ?」
ニラッチが見る。
ナスビーは、少しだけ真面目な顔をした。
「ミヨ子ちゃん」
「はい?」
「ニラッチばっかりにキャーキャー言ってたら――」
ナスビーは頬を膨らませる。
「俺、嫉妬しちゃうよ~」
「…………」
ニラッチが固まった。
ミヨ子も固まった。
「……嫉妬?」
「うん」
ナスビーは、あっけらかんと言った。
「だって、せっかく発明サークルに女の子が入ってくれたんだもん」
「…………」
「俺とも仲良くしてよ」
「…………」
ミヨ子は少し考えて。
「もちろんです!」
笑顔で答えた。
「ナスビーくんとも仲良くします!」
「やった!」
ナスビーは嬉しそうに笑った。
「じゃあ、三人で発明しよう!」
「…………」
ニラッチは二人を見つめた。
なんとも妙な状況だった。
自分を追いかけ回していたミヨ子。
それを勝手にサークルへ入れたナスビー。
そして、そのナスビーが今度は嫉妬すると言っている。
「……お前たちは本当に自由だな」
「そうかな?」
「そうですよ!」
「…………」
ニラッチはため息をついた。
しかし。
ほんの少しだけ。
口元が緩んだ。
「……まあ、いい」
「え?」
「今日くらいは、付き合ってやる」
「本当!?」
「本当ですか!?」
「ああ」
ニラッチは部室の机を見る。
「ところで……」
机の上には、小さな装置と、数匹のイカが並んでいる。
「……これが、イカ臭い原因か?」
「そうそう!」
ナスビーが嬉しそうに説明する。
「食品乾燥装置の実験!」
「…………」
ニラッチは装置を覗き込む。
「この温度制御では、熱がこもるぞ」
「え?」
「冷却ファンの位置も悪い」
「マジ?」
「ああ」
ナスビーの目が輝いた。
「じゃあ、ニラッチも手伝ってよ!」
「……仕方ない」
ミヨ子も嬉しそうに笑った。
「じゃあ、三人で!」
「うむ」
こうして。
発明サークルには、初めて三人の部員が揃った。
ナスビー。
ニラッチ。
ミヨ子。
そして、その日。
部室には――。
イカの匂いと。
三人の笑い声が、いつまでも漂っていた。
ちなみに。
この日を境に、ニラッチは少しずつ部室へ顔を出すようになった。
もちろん本人は、
「別にサークルが楽しいわけではない」
と、最後まで認めなかった。
しかし――。
その後、誰よりも頻繁に部室へ来ていたのは、他でもないニラッチだった。
